2015年7月16日
春の夢-17 荻野彰久 荻野鐵人
ムッとして彼は表へ出た。タバコ屋の角を曲がり、先刻の喫茶店の女たちの目に後ろから見えそうにない辺りから、芳一は太った首を直角に曲げ念入りに自分の胸のあたりを嗅いでみた。ほんの微かな生グサイ魚のニオイすら嗅ぎ出すことはできなかった。父親が経営している生グサイニオイのする魚屋の店は渋谷にあったのだったが、ニオウのを嫌った自分が妹と姉とを説き伏せ、余計な負担を父にかけさせてまでニオイと住居とをはっきり分離させたのだった。それどころか姉と妹は兎も角も、芳一自身だけはあまりニオワナイ魚でも喰うことすら絶ったばかりでなく魚が住んでいる海へ注ぐ川の主要成分である水の中に浸ることを拒むどころか、飲むことすら嫌うときがあった。
激しく口が渇いた夏の日の夕べ、テニスなどやったあと、手にもったガラスのコップのなかをじっと見詰めては、かつては魚が住み魚に環境を与え魚とエンを結んでいる水に違いないとばかり、近づけた鼻でそのニオイを一度嗅いでみようともせず、折角の冷たいコップの中の水を、口へもっていき咽をうるおし渇きをいやす代りに、サッと地面にあけてしまうのだ。いやそれどころかときには水というものを離れたところから見るのすら嫌っているかに見えるときもあった。