2015年7月21日
春の夢-完 荻野彰久 荻野鐵人
芳一はその現実に見える魚からニオイが自分を追って来ると言うのだった。だから、喫茶店の女たちから言われた魚のニオイを街角に立ち止った芳一がどんなに自分の躰から嗅ぎ出そうとしてもニオウ筈はないのだった。芳一はさらに腰を曲げてしゃがみこみ両膝のあいだのニオイを嗅いでみた。魚のニオイだけはしなかった。急いで自家に還り寝ようとベッドのうえのフトンをめくると、裸の白い細い美しい足が見え、すぐその上の股のあいだにはっきり女の黒い盛り上った証コを見たのだったが順々に顔や頭のところまでフトンをめくっていかない先からすでに芳一の心の中では、それがN子の姿躰であることがはっきり知れている気がするのだった。恰もずっと以前からそれを芳一が期待し予感していたかのように。が、もぐりこんでいる体の上に乗っているフトンを顔までめくった瞬間芳一はびっくりした。首の上にのっている顔だけが父親だったのである。思わず芳一は顔をそむけた。そのとき「芳一!」と彼の名を厳めしい父が呼んだ、と思った。
が、真青な顔になって「ほういち!ほういち!」と呼んでいたのは、いや叫んでいたのは母親の顔だった。芳一は飛び起きた。「父さんが!父さんが!」と芳一の肩を部屋のなかに入ってきた母は二三度激しく叩いた。そのとき芳一は夢から完全に目覚めていた。父が寝ている下の部屋へ母より先に芳一は行ってみた。間もなくやってきた医者の診断では「脳血栓症、ということだった。三時間もたたないうちに日暮れどき父は死んでいった。芳一の目からはすぐには涙も流れてこなかった。立ったまま芳一は動けなかった。それからつぎつぎと時間が死んでいくにつれ、じめじめとわけもなく夜フトンのなかで涙が流れ出した。
三日のちの朝、芳一は「東大」の受験に元気よく出かけていった。