2015年8月5日
蜘蛛-(11) 荻野彰久 荻野鐵人
「見えないか?」
好意に満ちた質問を離れたところから誰かが彼に発したとしても、素早くは声や言葉を出さない答えで、彼は答えるだろう。
「うん、素敵によく見えるのだ!すばらしい金魚がね!」と。
「いや、そうじゃない!ガラスの壁が見えないのかと言っているのだよ!」
と呆れ返っている助言者がさらに誠意を込めて訊ねるならば、素早く彼はすぐ一つの手をガラスの壁から離し助言者の口を押さえるために走って行くだろう。
そして答えるのを彼が欲しないもう一つの答えで厳しく相手を睨みつけながら答えるだろう。
「喋るな!俺に。気が散るじゃないか!」と。
でも今、彼には余分な手は一つもないのだ。
しがみついている脚のすぐ下の、見詰め続けている眼のすぐ前のガラスから一寸でも手を抜き、心の緊張を緩めるならば、またいま眼の前の金魚を掴み損なうばかりでなく、たちまち自分は冷たいすべすべのガラスから滑り落ち、ひょっとしたら墜落死を遂げるかも知れないと思い込んでいる。
だから如何なる善意に満ち溢れた助言も、語り続け見詰め続けの作業から彼を解放することはできないと言わんばっかりに、硬く関節を折り曲げたジュンカンに悪い影響を及ぼすに違いない窮屈な姿勢で見詰め続けているのだった。