2015年8月19日
akira's view 入山映ブログ 御用学者
25日のブログ「事業仕分け(4)」で、政権は質の良い御用学者を抱えておくべきだ、と書いたことに批判のメールを何通か頂いた。御用学者とは広辞苑によれば「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」のことだという。学問的節操を守らぬ学者を抱えろとは何事だ、というお叱りだ。同じく広辞苑で「宮中または政府の用事」というくらいの意味で「御用」を用いたのだが、不適切だったのかもしれない。もっとも権力に迎合・追随しても学問的節操さえ守っていれば御用学者ではない、ということのようだから、それはそれ、と考えることも出来る。ビスマルク以来、政府と意見を同じくする学者を見いだすことはそんなに困難なことではないのは周知の事実だからだ。
その意味では小沢(といっても一郎の方ではなく鋭仁)環境相の発言として伝えられる「鳩山政権のやりたいことを本当に応援してくれる」専門家を選びたい」という発言(11.25.朝日朝刊1面)は初々しくて好感が持てる。これこそがこのブログが25日にいいたかったことだ。当たり障りがなく、誰も異論を唱えることの出来ないような意見しか述べない(テレビ報道番組によくある)コメンテーターの提供する情報量はゼロだ。明日の天気は晴れだ、という情報の確率は70%かもしれないが、意味はある。明日の天気は雨か晴れか曇りだ。もしかすると雪かもしれない。雷も鳴るかもしれないし鳴らないかもしれない、というのはおそらく100%の確率で事態はその通りに起るが、その情報に何の意味もない。
NHKお得意の「適切な対応が望まれます」式のコメントしか提供しない審議会、諮問委員会の類いは自民党政権時代にたっぷり見せて頂いた。要するに官僚の作文にラバースタンプを押すだけの学識経験者を集める。(そうでない人は選ばれない。間違って選ばれても再任されない。)この人たちが学問的節操をお持ちだったかどうかは詳らかにしないが、敢えていうならば、そんなものを問うまでもない、ということだろうか。学者の質の善し悪しの「めきき」を誰がするかはともかく、質の良い学者を揃えなくては意味がない。さればこそ「政権のやりたいこと」を「応援してくれる」ことに意味があろうというものではないか。
自民党時代は何でも悪かった、というつもりはさらさらない。小泉政権時代の竹中平蔵氏は誠に質の良い政権応援団だった、というより、存在感と存在意義のある学者(後に政治家におなりになったが、これはまた別論)だった。そんな学者を民主党政権がぜひ見いだすことを期待したい。
2009年 11月 26日