2015年8月31日
「精神と芸術」座談会 (3)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
島崎 それが彼の本当の人柄だったと思う。生(キ)のままの人柄だったんだろうか、それとも何時も仮面を被っていたのでしょうか。
亀井 いや、僕は、まあ、何年か付き合って来たが仮面というものはぜんぜん感じませんでした。僕は本当に津軽の「ナロードニキ」と云うんですがね。(笑)ギリヤークの血の混じつている程、健康でしたよ。
荻野 作品を読むと、随分変っていると思う所がありますね。われわれ医者の受け取る感じでは、仮面を被っているという感じを受ける。
亀井 そうですね。作品というものは自分にとっては棘だと自分で書いていますからね。作品からそういう感じをお受けになるのは当然ですね。しかし、あれだけ胸を悪くしたり、注射して、そうして一年なら一年間休息すると、ちゃんと回復するんですからね。生命力は非常に強い人だと僕はそう思うんです。でなかったら、とうに「晩年」の頃、死んでいますよ、一番先の作品の頃。随分滅茶な生活をしているんです。それで、一寸休息すれば何でもないんですからひどい奴だと思う。(笑) 丈夫すぎるんです。
荻野 一ぺんなにかで不健全な生活に落ち入りますと、それの連続というものが生活にあらわれて、これがずっと仮面を被る事になるわけでしょう。
丸山 結局、あの人は生命力が旺盛であった。まあ肺を病んでいたものの、大体素質的には健康であった。しかし、まあ、非常に痛烈な、どうともしようもない悲しみとか、思想といってもいいですね、そんなものを持っていたということは云えるでしょうね。そうしますとねえ、まあ、私が提案者ですから申し上げますが。(笑) 健全なる精神は健全なる身体に宿るという事は、まあ、非常に悪い意味の常識に過ぎないのでしょうか。