2015年9月3日
「精神と芸術」座談会 (6)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
丸山 そこまで積極的ではないんですが、私は豊橋市で終戦後下宿している時、隣の部屋にお嬢さんが三人いてよくグランドピアノのレッスンをやるんです。二階でね。はじめ、これは大変な所に来たものだと思って、何も出来ませんでしたが、一年居るうちに充分に馴れてしまって平気になるんですね。もっとも弾いていないとやれないという、そこまではいかないんですけどね。(笑) もう年の加減もあるんですが、とにかくなんでもなくなって来た。唯それだけは云えます。唯、そのために、前に、すべてのものをはらいのけて静かな時に書いたものと何処か違うのですね。それでなくとも戦争と云う、まあ大きな経験をしたり年をとったりしたそういう事で鈍って来たのですね。何か粗いとこが出来ましたね。それは、今お話した事と関係はないのですがね。何か都会に居るとさっき、亀井さんが云われたように、より以上の強力なものを求めている。その中で何かスポッと淋しい心を抱くのですね。
亀井 殺伐な条件がなければものが書けなくなると云うことがありませんかしら。例えばね、同じ人間が京都に行くと駄目になる。小説家で京都で生活している人はいませんね。私は小説を書かないから解らないんですが、武田麟太郎とか、誰か銀座の真中辺でアパートを借りて四階で小説を書いている。どうしてったらね、殺伐な中で殺気立ち乍ら小説を書かなければ書けるものではないってんです。皆、他の人に聞きましたら、そういう事が多いですね。京都とか奈良辺でのんびりとすると全然散文芸術は出来ないのですね。
荻野 しかし、習慣もありましょうし、一つは生産されるものが違う。
亀井 少し高ぶっていなければいけない。ことに評論家と云うのは人をやっつける職業なのですから。(笑)