2015年9月8日
「精神と芸術」座談会 (9)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
斎藤 作品というものは、外界が条件付けるというお話しがありましたがそうすると、今度、作品が作者の方に働きかける逆の面がだいぶ強くなって来るのではないでしょうか。段々、そういう時代の条件にしぼられて。作品で読者というものは影響されるけど、それ以上、作者自身の方が深刻に影響をうけるようになるのじゃあないでしょうか。
島崎 書く前から、自分が書いたものがどういう風に受け入れられるかって前もって考えて、その反響を自分がもう一度見て書くと云う事はありませんですか? 昔の抒情詩人は本当に自分の生命を歌い上げるというのは、誰か読んで呉れても呉れなくても、おれは自分の事を自分で書いたものである、という具合にね。ところが、いまの作家は、何かそういう受取りというものを意識して、すでにその反響を読み取って―。
斎藤 あらかじめね。(笑)
島崎 人間関係が往復的になっているんですね。
丸山 私達のような狭い詩のようなものをやっている人間は、この詩は自分が感じていることを本当に書いているかどうか、人がその通り受取って呉れるかどうか解らない。一人よがりになる心配がある。これは年のせいですけどもね。昔は心配しなかった。精一杯やりましたから。しかし、そう考えもその考えといつも矛盾するのです。どうしたって一人よがりになってしまうという悔いが後に残るのです。書いた後。だから、確かに一遍自分の方へ反響させて老えてみます。そういう形で考えて見ますね。そればかりではありませんね。例えば評論なんか書く人は又違って来るでしょうけどね。対象が広い場合、読者が広い層をもっている場合は変ってきますね。
斎藤 まあ丸山さんの畑っていうのは非常に特殊ですね。
丸山 特殊って、私は特殊なことはしていませんがね。私なんか。それこそ、もっと若い先端の人なんかはね。
斎藤 自分で苦しむといった商売ですかね、これは。(笑)
荻野 芸術家は誰でもみんな自分で苦しむのですね。