2015年9月9日
「精神と芸術」座談会 (10)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
デモンの問題
丸山 前に、荻野さんが云われたデモンの問題ですね。あれについて、一つ。
荻野 たとえば、ドストエフスキーにテンカン癖がある。テンカンがあるが故に長い作品を根気よく書けるといったような説がありますね。そうすると、病態からクリエイトされるものが真実であるか、どうか? 常識的には真実ですね。われわれが読んで納得ゆきますから……。ところが、それが本当の人間性の真実であるかどうか、科学的に真実であると云えるか、どうか。つまり、われわれが信頼していいのかどうか、このへんの事についてどうでしょうか?
島崎 ドストエフスキーが非常に綿密な描写ができたというのは、あの人は要約する事が下手なんじゃないでしょうか、裏からいいますとね。私は綿密なものを書くのはとても苦手でしてね。学会演説が一番得意なんです。五分間位いでやるのが一番有難いです。そうでない人もありますね。つまり、一つの情景を綿密なものにして、長いものなら、いくらでも書けるという人がありますね。
何か、ドフトエフキーのような、あ々いう気質の人ですね。まあ、その気質がどぎつくなるとテンカンなどになるわけですね。テンカンというのは特殊ですから、一応、除外して考えてもですね、まあ、そういった病的な傾向のどぎつい人ほど、非常に綿密な描写が、そう云う一つ一つの何も落さないということが得意だという。これはやはり法則的にいえるのではないでしょうか? (斎藤先生を見ながら)どうでしょうか、先生。
斎藤 まず、ねえ……ええ。そういう条件から離れてもね。あの人にそう云う性格があったんですねえ。
荻野 性格的にその人間の個性としてですね。それでは文学的にはどうなんでしょう。
亀井 ジイドだかの、ドストエフスキー論だと思いましたが、根本はやっぱり思想の問題からくる、抱いた思想というものが複雑で、厖大でそれが上手に表現できないっていうんです。もの凄い大きな荷物がありまして、その荷物をどかすとしまして、戸は狭いからあちらへぶつけ、こちらへぶつけしたというような形のものがドストエフスキーの文章であるというようにいっていました。
ぼくはそれを面白いと思ったんです。あり余るような、この云わなきゃならないものがあるのではないでしようか。
荻野 簡単には云えないものが、ね。
斎藤 そういうことでしようね。