2015年9月10日
「精神と芸術」座談会 (11)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
亀井 あっちやこっちへぶつけて傷だらけの形で。表現は、そうなるだろうというんです。
島崎 そうするといろいろな発言は、みなその限界があり、相対的なものがある……。どうも(笑) 教祖的な発言でも誰かやらない限りおさまらないということですかね(笑)
ジイドがそうなんですか?
亀井 いや、ジイドが、そう書いているんです。ドフトエフスキー論の中で。
島崎 今、精神医学者で、フランスの第一人者のグレーと云う人が居るんですけど、それがジイドを勉強していて、厖大な著作を書いて、今その謙訳が進んでいるところ。みすず書房から出るそうです。ジイドがこんどは俎上にのぼることになりますね。(笑)
丸山 なるほど―。
ところでどうでしよう、私は作品の中にですね、つまり、文学の中に何か非常にけしからんものがそれぞれ入っているような気がする。直感でそう思うんですね。つまり、評論なんか、その人の思想がはっきり出るんですから、そういうことはありませんけれど。詩とか、小説だとか、あるいは絵画は、特に美というものを強く出している。まあ、そういった美的なものに、なにかわれわれに対して害を与えるものがあるんじゃないか。名前をあげると、一寸差しさわりがありますので、申しませんが、非常に唯美的な作品を書く人がある。今生きて居りますが、その人と、私、暫らく一緒に居たことがあるのです。その人が作品を書き出してるところに、偶然、ドアーを開けてアパートに入って行くと、実にいやな顔をしているんです。意地の悪いデモンのような顔をする (笑) 作品を製作中で、私が行っても邪魔だと云った顔をしている。(笑) そしてまたその人の書いたものには悪い所がある。ところがそれが一つの魅力なんですがね。
いろんな作品の中には、多かれ少なかれ、そう云うようなところがあるんではないでしょうか?
荻野 また、それが小説をひきずるカギになるのではないでしょうか? 導火線みたいに。触媒作用的なものになるんではないでしょうか?