2015年9月11日
「精神と芸術」座談会 (12)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
島崎 絵でいうと、林 武、あの人は非常にデーモン的ですね。
何か人をはねつけるものと、絵からヌーと手が出てこっちを掴んじゃうような、そんな感じがしますね。(笑)
亀井 一番単的にでてくるのは女優でしょうね。例えば処女を演ずる場合、処女の女優がうまく演ずると云う場合はまず有り得ない。名優と云うものは中年の素顔を見たら、いやなばあさんが、舞台に上ったら、誰よりもうまく処女を演ずるのですね。
ですから、そう云う事があてはまるんではないでしょうか? 全般的にはね。
島崎 どうなんですか? デモン的なものが全然ない作品というと、ゲーテが引き合いに出されますね。ゲーテと云うと非常に女性的な所がありますね。何か、女の人っていうのは、そういうデモン的なものが少ないんじゃないか。
女優の事で思いだしましたが。男の仲間のほうが、そんな自分の中に悪魔を持っている。そんな事はありませんでしょうか?
亀井 さあ、どうでしょう。まあ、なんですね。絵でも詩でも、音楽でも、小説でも、芸術の場合、作者が、自分の中に男と女と両方持って居なければ出来ないってことはいえましょうね。
島崎 自分の中にね。
亀井 ええ、男性でもなければ、女性でもない、中性でもないものだと思うんです。だから、世界と云うものが描けるわけです。完全に男性的である人は作家になれない。立派な芸術家にはなれません。完全に女性的だと、また書けない。本当に女流作家でもね、良い作家というのはその中に男性的要素があるのではないでしょうか?
荻野 それを丸山先生といつか議論したことがあるのです。亀井先生の今のお話でよく諒解しましたが、男には女性の面があって、男性の面がある。女らしい男って云うのがありますね。どれか片一方の方がプラスになっていますね。一体に両方あるんですってね発生学的にみると。それで片一方の方が退化して片一方の方が……。