2015年9月16日
「精神と芸術」座談会 (15)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
島崎 その、ですから(笑) 実は、私のはテープコーダーが随分長いほうでして、シンクロリーダーのように四分間に巻けない。(笑)
丸山 亀井先生、いかがでしょう。
亀井 これは、それこそ、ぼくの素人考えなんですがね。ぼくは近頃、絵でも彫刻でもね。そういうものを見る場合に、完全に建築から離して考えてるのはいけないと思うんですよ。
すべての美術というものの母親は建築なんです。あるいは、私達の日常生活に結びついたものなんです。
ですから、前衛芸術を判断する場合に彫刻なら彫刻をそれだけとして見ないで、建築と結びつけてみると、ある建築の、非常に新しい建築のある部分に非常にピッタリ調和する場合があるんです。
それが全然意味の無い場合もある。ぼくはそう云う風に考える。だから、岡本太郎さんなんかとよく喧嘩するんですが、太郎さんカンカンになって怒るんですが。ある場合、太郎さんの絵というものはピッタリ合う事もある。その建築にマッチすることもあるのです。一つだけポッと離して応接室に置くべきではない。彫刻でも、絵でも、同じだ。
書なんですがね。書と云うものは人に意を通じるのが目的でしょ、それが一番の原則なんです。だから、それが結果として非常に美しければ、ぼくは良いと思う。豊臣秀吉のネライなんか、そういう意味で芸術的且つ実用的だったと思いますね。その建築とか、日常生活とかに結びついた意味で、とくに造型美においては、実用性と遊離したものは、美の堕落だと思う。だから、解らなくなるのは当り前だ。