2015年9月23日
「精神と芸術」座談会 (18)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
亀井 まあ、尾形光淋らの屏風に描かれている波でも河でも凄く抽象的ですね。
あれほど日本家屋の場合は非常に必然的に結びついているのではないのでしょうか?
そしてそう云うものからも、悲しいかな私達は遊離しているのですねえ。
例えばねえ、桂離宮を見学に参りましても、実はわれわれは、あそこで一晩中酒を飲んでみなければ解らないですよ。
ぼくは悪口を書いてみたのですけど、あまりキザであんなもの退屈しちゃう。後で、あそこの守衛の人と話したんですが、皆な帰ったタ方、月が出て、そして月の光線の中で御覧になると、又違うって。たしかにそうですよ。その目的のために造ったんですから、そういう点だけでも、美術鑑賞が狂ってくるでしょ。本来は、そこで涼んだり、舟を浮かべたり、管弦をやったり、そのために造ったものなんです。見物のために造ったものではないのです。ぼく達は今、周囲を見物するのに三十分位で走らせてしまって、見物したとか、わかったとか何とか云っているんですからね。そこで、もう狂いができてくるのです。各々生活目的があって、全部ある訳なんです。外国でも。そうでしょ。
島崎 それが、私、気になって仕方がない。桂のあれはさっぱり解らないんですが、仏さんっていうのは、我々の美術鑑賞の対象として見ている。本当はやっぱり、拝むためのものであるんでしょう。
亀井 目的を持って拝むのですね。私は疫病になったからって頼む時、薬師如来の方に行くわけです。お釈迦様に行くやつはいなった。今はもう目茶苦茶ですね。各々の目的によって願をかけに行くわけですから。