2015年9月28日
「精神と芸術」座談会 (21)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
島崎 年をとりますと、ね、自分の生命の終りが近づいてくるわけでしょう。人間というのは前を向いて歩く動物ですから、うしろを見ないんです。過去というのはうしろにあります。いつも前へ前へと向いて歩く動物ですから、うしろを見ないんです。いつも前へ前へと向いて歩いているでしょ。実際これは精神分裂の患者を扱いますと、わかるのですが、未来は前の上の方であることがあります。それから二十五、六位の頃には、前途洋々と感じている。未来は見果たせない。初めのうちは未来がこのへんにある。仰いでいる。歩きながら、あえぎながら前へ前へと歩いている。引きずられると前へ歩けなくなる。これは憂鬱病の患者です。非常に具体的な問題ですね。年とりますと、前がなくなって無になる。無に直面すると、これ以上怖ろしいことはありませんからね。そうすると、大概の人は自分の過去のことばかり話す。年とりますと、みんな自分の若い頃の楽しかったこと、成功した話ですね。すでにその人の現在がずっとうしろに戻ってしまうってことですね、非常に恐るべきことだと思います。過去にもどって、その中に生きているのですね。それでやってきてまた、直面することを無意識のうちに避けているんですね。そうならない人は又、無に直面すると、彼岸との直面がはじまるわけです。どっちの方が本当の生存でどっちの方が隠蔽があるかっていうと、人によって違いましてね。彼岸を求めるということは、すでに救いを求めるということで、本当に直面していないのですね。これは逃避で、過去にさがるのも逃避なのです。いったいどうすればいいかということになりますと、結局毎日毎日の現在に直面しながら、それに適応しながらゆくのが一番いい、という非常に俗っぽい答が出ちゃったんですけど。