2015年10月1日
「精神と芸術」座談会 (24)
―健全なる精神と健全なる身体―
出席者 亀井勝一郎・島崎敏樹・丸山薫・斎藤玉男・荻野彰久
(東京 荻野邸にて)
島崎 超現実が生れる為には、それまでの中世期までの間の写実主義から印象主義を通ってきた、ああいうものをひっくり返して、新しい美を創らなければならないという、やり切れなくなった面をまず、前提にして、それからひっくり返した美というものを置くわけでしょ。そうすると、ああいうものが、はじめてそこで……。
丸山 だから、そうすると、そういうものをそこまで追いつめているものがあるわけでしょ。基本にね。
島崎 それまでは美というものは外界と、つまり主体と容体とがお互いになりひびくものですから、超現実というものは外というものを一切シャットアウトして暗い世界の中へ自分をしずみ込めて、その暗がりの中から出てくるものですね。それに形を与える。
丸山 それで、いちばん大きな問題は、いま超現実主義というものは、いまはない、自然消滅のようになったわけですが、ああいうものが今後の詩とか、絵とかに、どれだけの影響を与えるか? たしかに変っていますね。あれ以来わたしは、そんな気がしてならない。まあ、結局、潜在意識というものに非常に着目してきた。それをとりあげるということは、そんなに驚ろくべきものではないということになってきた。
現実というものに対する観念はかわてきましたね。現実というものは単に外界にあるものだけではなく、もっと内部にもあるものだというふうに。だから新しい作家のものは、小説なんか読んでもそういうものがでてますね。たとえば、大江健三郎の小説なんか、かなりでてますね。
島崎 ぼくは大江健三郎、全然読んでないですが、なんかそういう―。
丸山 ええ、まあ。
荻野 亀井先生、きっとお読みにならんでしょうね。
島崎 どうも、精神病理学なんかやってる連中、医学をやっている人はああいうものは嫌いですね。