2015年11月24日
あけびの花に寄せる寸想(1) 斎藤玉男
「人間国宝」と言うことばはどうも耳さわりだ。宝と言うと兎角珍重され別扱いされ飾り物にされると言った連想が伴う。どんな人間でも立札に由緒が書かれたガラス箱に納まって壇の上に飾られるのは、究屈でもあり迷惑でもあるに違ひない。考への角度を3度程ズラせばどの人間でも「国宝」以上でないものはないとも言へるのであらう。亡くなられた高村光太郎さんが芸術院会員をことわられたのは至極尤もの訳と思へてほほえましい。但し七十四才そこそこで人間存在までをことわられたのは如何かとも思う。
高村さんは人間として人間に感謝することを体得して居られたと思う。これは生れながらのものであろう。知恵子夫人注1を見舞はれる度に不器用で、言葉少なではあるが、医者にというよりは看護の衆に心からの感謝を示して行かれた。言わば人間が人間に感謝し得る、その遭遇を噛占めると、言った態度であった。
つまり病む人も看とる人も自分をも含めて人間全体がいとしいのであっただろう。