2015年12月4日
打明けばなし(対談)(3) 井村恒郎
(問い手 斎藤玉男)
問 「芸術新潮」の二月号に「アルチストとアルチザンの問題」が載って居ますが、これは芸術界に限らずわれわれの専門でも、体系の歴史が古くなり分派が確立するにつれて、「学問の職人」が出て参る惧も絶無でなくなりますネ。カンの良い腕の練れた、そして「自分はアルチザンだよ」と言うアルチザンは買えるのですが、学問の世界のアルチザンで固まられてはどんなもんでしょうかネ。こんな点で一つ伺っておきたいのですが――。
前に申しあげたことと関連するのですが、どうも近頃は、お話しのアルチザンが多すぎて、学界に出て聴いてもハハアと驚くことはあっても、感動するということはないようです。これは私がウェットで、若い人たちのドライな感覚に共感できぬせいかもしれませんが、臨床精神医学はとどのつまりはパスカルの言うような「人間の研究」だとしますと、この頃では、患者は「人間」とみられる前に「資料」とか、せいぜい「症例」とみられてしまって何か精神のない精神医学が流行している印象をうけます。先に申しあげた精神医学のアンバランスはこの点にもみられるのでして、精神医学者の心構えという点では、呉先生時代からみたらあるいは退歩しているような気さえします。もっともこれは、私のヒガメで若い真剣な人たちはそのドライな、「脱人間的」とみえる能度の裏に、感傷をぬきにしたほんもののヒューマニズムが動いているのかもしれません。たしかにそういう若い学徒も何人かいますから私の申したことは、幸いに杞憂に終るかもしれません。