2015年12月11日
風・木の実・女(4)――海での思い出―― 丸山薫
美味かった思い出のもう一つ。
暑熱で眠れない深夜、私は船室のベッドを抜け出て、コーターデツキに昇っていく事があった。そこのミズンマストの帆がふわりと月光に弧を画き出しているうしろに、帆船独特の巨大な舵輪があって、昼夜の別なく二人の若者が交代で舵把にとりついている。その傍に当直の士官が立っていた。
当直士官が僕と仲良しの若い三等航海士であるとき、彼は指で差して、親切に星座の説明をしてくれた。そして昔の船乗りが使ったあの細長い一眼望遠筒を貸してくれて、それを伸したり縮めたりして月を覗いたり、六分儀で星の高さを測ってみたりした。ときおり、舘のような薄い雲が月を遮切ると、さっと涼しくスコールが通り過ぎる。そんな晩だった。前方の昇降口から急ぎ足の靴音が近付いてきたと思ったら、ボーイが夜食のトースト・パンと冷いコーヒーを盆にのせて運んで来た。夜食は深夜の勤務をする航海士のためのものだったが、勧められて僕もパンだけを一片もらった。そのパンのおいしかつたこと!――なんとそれには、いまのいま天から降ったばかりのスコールの雨水が泌みていたのだった。