2015年12月14日
風・木の実・女(5)――海での思い出―― 丸山薫
船内いたるところに強い塗料の臭いがした。ペンキやチヤンやニスは暑さに溶け、その臭いは掌のひらに滲み、全身の毛穴に泌みこむような気がした。それを洗い落すにも潮水のバス。渇きをいやすにも油くさい飲料水。それらの無機的な非情な臭いのなかで、せつなく想い描かれるのは陸の生き生きした緑の草木、それを吹く風、風の中にゆれる木の果である。いや、果物などと贅沢は云わない、せめて風でもいいから植物の匂いのするものなら、一と口食べたいと思うようになった。
果物と同様に海で欲しくなるものは、なんといっても女である。恥しい話だが、鉾々と切なる慾望をもって、女性の肉体が欲しいのである。でもやがてそれを諦め切ると、慾望はせめて女を見たい、女の声でもいいから聴きたいという憧れに変ってくるのだから、世話はない。ところで海の上で空想する女は、ひどく美しく柔しいものに変っているのだ。神様が「女」という好いものを造って下さった倖せが、しみじみ有難くなり、その「女」がいるというだけで地上がこの上なく愉しく思えてくるとは、なんと結構至極な事ではなかろうか。