2016年1月4日
籠桶をさげて(2) 板倉靹音
昭和十年代の初めに高齢でなくなったが、名右屋に浅井という人がいた。この人は雛を密閉した容器に入れ、外で三羽の鴬を鳴かせ、その都度蓋を開閉することによって甲の鳥の「中音」、乙の鳥の「高音」、丙の鳥の「下げ」だけを聞かせ、三羽のいい点だけを取った鳥をつくることに成功した。
鴬飼いは名鳥をつくることに一生を賭けているのであり、そのためには立派な付け親を絶やすまいとして非常な苦心をはらってもいるのである。
「どうも皮肉なもので、いい鳥ができると応召でしてね」と梅田さんは言った。この人は晩年の浅井翁の薫陶を受けた人である。
昭和十五年の春、梅田さんは会心の鴬をそだてあげた。ところがその七月に召集令状が入ったので、この鳥を友人の飯塚さんにあずけて豊橋に入隊、関東省に渡り、ここからシンゴラに敵前上陸、タイからビルマに転戦した。ビルマの山中では目白の鳴き声をきいたが、そんなときは残してきた鴬のことがしきりに思われた。ビルマ作戦も終りに近づいたころ、十八年六月、飯塚氏から鴬健在の知らせを受けとった。