2016年1月5日
籠桶をさげて(3) 板倉靹音
間もなく雲南省に転出、小部隊をつれて偵察に出かけた寛監塞では敵の大軍にかこまれ、包囲政撃を受けること二週間というようなこともあったが、奇蹟的に助かってインパール作戦にひきかえし、同年八月現地除隊となってその月の末に帰国した。鴬はまだ元気に鳴いていた。足かけ四年目の対面であつた。
ところが、と(・)や(・)が悪くてこの鳥はその秋に死んでしまった。春には久しぶりにまた雛をそだてて、と楽しみにしていたのに、がっかりした。付け親がなくては話にならないのである。何としてでも親になるような鳥を探しださねばならぬ。すると、熱田の野間という人の二才の鳥がホケて(下げの後半を鳴かないこと)持てあましているということを耳にした。じゃの道は蛇で、いろいろな情報が入ってくる。それらを綜合してみると、たしかに素性のいい鳥ではあり、そのこわれ方にもだいたいの見当はついたので、出かけていってあって先方の言い値で譲りうけた。
「こんないい鳥をこわしてしまうようでは、鴬を飼う資格はありません、これからは雲雀でも飼って、鴬はもうあきらめます」としょげていたそうである。その鳥を見ると、はたして紫色の肉がむき出しになって堅くはりつめていた。明らかに栄養過多症であり、おまけに大事をとって暗がりで鳴かせていたために、鳥は癇癪をおこし、自分の羽毛をむしり取ってしまったのである。これではすなおに鳴けるはずがない。梅田さんは思い切った荒療治を加えることにした。苦心のかいあって鳥は以前の名調子をとりかえした。
すると、また召集令状が入ったので飯塚さんに託して、豊橋へ入隊した。十九年七月のことである。