2016年2月2日
北の言葉(2) 更科源蔵
プーシユキンの「吹雪」といふ短篇があるが、くわしい筋は忘れてしまったが、結婚式に行く男の馬橇が吹雪のために道に迷ってしまって、式場の教会に行きつけない。同じように道を失った一台の馬橇が花嫁の待ってゐる教会にたどりついて、それに乗ってゐた男と結婚式をあげるといふのであった。これだけでは随分筋に無理があるから私の思ひ違ひもあるかもしれないが、吹雪で馬橇が道に迷ふなどといふことは南の方では、何としても実感として感じられないことだと思ふが、私の生れた釧路や根室の方では今でも生命が紙屑のように吹きとばされる吹雪が、一冬に一度や二度は必ずある。もし吹雪といふ言葉が濡れ雪の横なぐりを表現する言葉であるとすれば、吾々の感じてゐる吹雪はもっと別な言葉で表現しなければならないのである。然し言葉といふものはそんなに簡単につくられるものでなく、一つの言葉には永い永い生活の歴史がなければ生れてこないものらしい。それで私は時々歴史も伝統も風土もちがふ外国語をうかつに使って大丈夫ですかとききたくなる。