2016年2月9日
akira's view 入山映ブログ めきき
私語が多くて授業にならない、なんていうのは中学・高校の話かと思っていたが(それだって由々しい問題であるには違いないのだが)、昨今では大学のクラスまで似たような問題を抱えているようだ。微分・積分はおろか、二次方程式すら怪しい生徒が工学部にいたり(それも一人や二人ではない)、高校時代に小説を一冊も読んだことがない、という文学部の学生が現れたり(読書とはコミックブック、昔風にいえば漫画である)、というのが常態化している、とはいわないまでも、決して珍しい有様ではなくなってきている。
考えてみれば、1955年、つまり昭和30年にはそもそも高校の進学率が50%程度で、大学進学率に至っては10%とか20%だったものが、半世紀後の2005年には、高校はほぼ全入。大学進学率も50%なのだという。つまり、今日の大学生というのは、50年前の高校生のイメージだと思えば大差はない、ということになる。大学の数も増えに増え、それに伴って定員割れしている大学が3校に1校くらいの割合だという。要するに願書さえ出せば入学できる大学が少なくない、ということだ。だから、知的エリート、あるいはその卵のイメージを大学生に求めるのはいまや時代錯誤だ、ということになりかねない。こちらのほうは、さすがに世の風潮も、いまさら「学士様ならお嫁にやろか」ではない、というのは疾うに常識になっている。
大学教授の方も、当然水増しになって、一昔前ではとても通用しなかったようなレベルの「大学教授」があちこちに群生するようになった。少なくとも一定の方法論と、理論化と検証のイロハくらいは心得ているのが大学教授だった筈なのだが、ちょっと新聞種になった社会活動家、センセーショナルなレポートなどをものした作家、といったたぐいの方々が、学生集めの集客パンダよろしく大学教授におなりになるのも珍しくない。ところが、大学教授のタイトルの方は大学生ほどに劣化の速度が速くないから、御用学者を含め、様々な場で、結構使い勝手がよく、つぶしの効く職業であるようだ。
別にめくじらたてて騒ぎ立てるほどのこともない。というのもマスコミ報道と同じで、いまや国民の方でそのテのご意見は割り引いて聞いたり、無視したりする知恵が身に付いている。例によってその辺りの感度の鈍いのがお役所で、肩書き偏重の前例主義というのは牢固として抜き難いものがおありになるようだ。もしかすると「権威」というものに冷笑的な社会にわれわれは住んでいるのかもしれない。あるいは国際的に通用してはじめて権威をお国でも認める、という昔々の本家がえりが始まっているのかもしれない、一方では日本でしか通用しないガラパゴスと、他方では形を変えた舶来崇拝。これまでにもまして「めきき」が必要とされる時代になってきたようだ。
2010年 07月 17日