2016年2月15日
あるべきよう(1)(ゲシュタルトに引付けて) 斎藤玉男
先ずあるべからぬようの姿から眺めてゆくこととする。
工場災害で手首から先をつぶした工員が手を切断した。外ごとに切断された指先のところがひどく痛む。そのため就業不能になる程の痛である。もともとその工員はこの災害は身の不運と諦らめて居り、給付された災害補償にもなんら言分はない。またそんな箇所がそんな工合に痛みはせぬかなど予感したことはない。それにも拘らず痛む。実に深刻に痛むのである。
そこを切取ったらと思ひもするが、現実には切取りたい手は既に切られて居るのである。全く以て処置なしである。
この場合痛のもとである曾ての指先と、痛を受付ける中枢とをつなぐ神経は残つて居るが、神経自体は何度切つても、丁度電話線を切つても通話の内容を変えられないのと同様に、痛を中断する結果にはならない。結局痛を完全に忘れ去るには、痛を受付ける中橿を除くなり酔わせるなりするほかない。