2016年2月16日
あるべきよう(2)(ゲシュタルトに引付けて) 斎藤玉男
中枢由来の痛と言うことになれば、痛の戸籍而ではこれは精神痛である。けれども立入って考えて見ると、これが精神の痛だけであろうか、そこに一応の問題が残る。精神が巧みに酔わされ眠らされても、中枢の一面が生憎醒めたままであると、痛は依然として残る。
だからこの痛は精神の痛でもあると共に、橋渡を勤める神経の痛でもあり、今は現実にはなくなったけれど指先そのもの、すなわち身体の痛でもあるとする外はない。精神神経医学と言うものは、かかるセンサイ微妙な分岐点にアグラをかいた、言わばケッタイな学問であると申せる。
それ故に、またそれだけに、集って分岐点を結び成す本支線のすべてが、あるべきように排列され、あるべきように機能するならば、その瞬間から精神医学は人間社会から御用済と相成るべき筋合であるが、現実にはあるべからぬようの姿があまりにも多い。さてそのあるべきようとは――