2016年2月17日
あるべきよう(3)(ゲシュタルトに引付けて) 斎藤玉男
あるべきようを取立てて語ろうとするとおかしくなる。何の事はない、それは物で言へば眼平鼻直であり、天地で言へば雲白草青であり、何のヘンテツもない、ある通りのあり方であるが、そのある通りの「通り」はどこをでも大手を振って罷り通れるだけの分(ブ)をもって居るらしい。どこまでもつつましく坐って居て、先方から自然に折れて坐る外はないような通用価値とでも言つたら中るかも知れない。
これはどこにもあって不思議はなく、物にも事にもおよそいかなる人間交渉にも普遍して不思議はない筈である。その限り世の中はあるべきようとあるべきようとの鉢合せが常態と言ってもよいであろう。