2016年2月19日
あるべきよう(5)(ゲシュタルトに引付けて) 斎藤玉男
「精神の中に位置して身体と精神を支配する存在」と一々くり返す煩わしさに代えて、ドイツのある学者が同じことを示すのに用ひたのが「ゲシュタルト」である、当節ドイツコトバはあまり受けがよくないが、ゲシュタルトだけはよく事柄を言ひおほせて居り、他国語には一寸これに当るものが見当らないので、何となく万国通有に使われるようになった。
しいて日本語に移そうとしても「形態の本質」でも、「形態形成の基本」でも、「形態観念の投皈」でも、「形態受容の発端」でも、事柄を言ひおほせて居らず、言ひ足らない箇条が残る。結局以上を捏ね合せ蒸し上げたものがゲシュタルトと言うことになるのであろう。これは眼に見える形態の意味付けでもなく、形態の背景となる概念でもない。形態に添っては居るが、形態とは別殊な存在そのものピタリである。
これは芸術で扱う匂ひとかうつりとかに比べて、遙かに生々しく具象に近い。