2016年2月23日
「変わった本たちとの出会い」(1)謡曲 竹下英一
畏友荻野鐵人博士のご厚意でこの欄に書かせて頂くことになりました。記憶に残る変わった本たちのことを書こうと考えています。読者の心に留まる内容になるかどうかわかりませんが、思い切って始めてみます。
私は昭和13年東京の生まれで、最初大森の母の実家に同居していました。私たちの年代は気が付けばもう戦争の傘の下にはいっており、住居のごく近くに防空壕があって、何回かそこに連れていかれたような気がします。今日新聞、テレビで報じられる中東、アフリカの子どもたちの困難に直面する姿は、決して遠いものではありません。
昭和19年に入ると空襲の激化で児童と家庭の地方への疎開が本格化しました。父は小児科医で川崎の病院に勤めていましたが、そこが事実上閉鎖されると、秋田県の鉱山町の病院に単身赴任することになりました。これを契機に母の実家の祖父母、母と私たち子ども二人は、祖父の故郷である群馬県、赤城山麓のある町の養蚕農家に部屋を借りて避難しました。
赤城山麓の自然は雄大で、四季の変化がくっきりしており、広々とした桑畑の緑とその果実の黒紫や、寓居二階の蚕室で幼虫が葉を食むざわめきも趣がありますが、冬の風はとりわけ寒いところです。祖父母は庭先の離れを、私たち親子は土蔵に続く渡り廊下を部屋に直したものを借りました。終戦前の昭和20年4月に小学校(国民学校と言いました)に入り、2年生の半ばまでここで過ごしました。
祖父は近くの農家兼商人の家の次男として生まれ、大学で会計学、貿易学を正式に学びました。祖母は、近くの桐生から横浜に出てきた家の跡取り娘で、祖父の家とは親戚関係にあったため、周囲の後押しで祖父が入り婿となって大正の初めに結婚しました。祖父は義父を手伝って、当時出来立ての銀行の貿易金融実務に携わることになりました。しかし、昭和に入ると欧米との貿易は停滞し始め、胃病の悪化もあり、しだいに鬱屈を抱え不機嫌になっていきました。
赤城山麓に引っ越してきた頃、祖父は50代の半ばで、事実上引退状態でした。ほぼ毎日家にいて、部屋で大声で謡をうたっていました。庭で遊んでいる私たちの耳に飛び込んできます。はしゃぎ声を上げると「うるさい」と叱られました。謡は聞いても言葉の意味が分からず、何か恐ろしい呪文を延々と唱えているようでした。実際祖父が謡に打ち込んでいたのには、ほかにはけ口を見つけられない怒りがあったかもしれません。
謡の本は、和紙に大きな字で謡曲のシテ(主役)、ワキ(相手役)の台詞と地の文(合唱による物語)のことば書きを縦に連ねて、字の右側に音の高低を記号で示したもので、曲ごとに冊子に綴じられています。いわば謡曲の大雑把な台本兼楽譜であると同時に練習用の教科書です。
謡曲文学は、日本人によって営々と蓄積された民間伝承、歴史口承、生産儀礼などを文学的に煮詰めろ過したエキスのようなものであり、日本文化の結晶と言える完成度の高い内容を持っています。耳で聞いて内容を理解し鑑賞することもできますが、謡の本の形でじっくり読むことによって、その表現のひだをくみ取り、登場人物、更にはその製作者の思いを分かち合うことが、私たち後世の日本人にとってはより有益だと思います。
祖父は昭和20年夏過ぎには病状が悪化し、間もなく胃がんで60才にも届かずに亡くなりました。その年の暮れに今度は私が、風邪からすぐに肺炎になり祖父の後を追いそうな状況になり、秋田から父が駆けつけました。今なら子供の肺炎の殆どを抗生物質で治せますが、当時は強心剤のカンファー液注射と脳や心臓筋肉の損傷を防ぐためのブドウ糖液注射くらいしかなく、本人の体力次第という危機でしたが、父の適切な処置で、この一晩というぎりぎりの峠をかろうじて越えることができました。当時多くの子どもがこのような状況で亡くなっていったのでした。 (つづく)