2016年3月8日
akira's view 入山映ブログ 国内政局
民主党党首選をよそに、大鹿のステーキだ、グラウンド・ゼロだ、などと太平楽を並べているのには訳がある。今回の小沢・鳩山両氏の去就に関する限り、いいたいこと、感じたことの全ては陳腐きわまりないことで、(珍しいことに)ほとんど朝日新聞の星さんの意見と一致するくらいのものだ。曰く、ついこの間政治とカネの問題で幹事長を辞めた人が党首選に立候補。幹事長はダメだが党首なら良いのか。支離滅裂になって政権を投げ出し、首相を辞めた後は引退しかない、と何度も言っていた鳩が、したり顔に仲介役を買って出るのはなにごとか。挙党体制というのは舞台裏で人事の取引をしておさめることなのか。などなど。ことほど左様に、太陽が東から出て西に沈むようなコメントしか申し上げようがない、ということだ。
恥を知らない人は強いからといって、自分もそうなりたいと思っている訳でもなかろうし、国民がこの鳩山・小沢の動きをどう見ているかに気がつかないほど民主党の議員諸氏は鈍感でもあるまい。にもかかわらず提灯持ちみたいな手合いが跋扈するというのは、よほどの確信犯か、そうでなければ、理屈抜きに頼る人が他にいないからだ、と考えるほかはないのではないか。確信犯というのは、旧体質どっぷりの、もたれあいの甘い汁あさりの古狸のことで、かつての自民党も逃げ出しかねない労働貴族相互間の親分子分が、これに遠巻きにたがを嵌めることになる。猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちたら何者でもなくなる、と言った人がいたが、頼る人欲しさというのは、当選に向けて物心両面の支援、さらには落選の憂き目にあった時に(経済的な)面倒を見てくれることが期待できる人に足を向けられない、ということだ。
そんなことは改めて言うまでもなく、誰しもが知っている事実に過ぎない。だから、民主党政権のこれまでの自民党利権構造との最大の違いは、多少なりとも理屈というか、寝技に代わって立ち技の通用する場面、あるいはそんな場面の期待可能性が以前に比べて何割か大きい、ということだろう。つまり、百人のうち、四十人、五十人は利につき、浪花節をうたったにしても、残りの相当部分は、理屈の通るストーリーの提示に向けて日和見をする可能性がある、ということでなくてはなるまい。ここで小沢氏が選ばれる、ということは、そういう一縷の希望の灯が消え失せる、ということを意味する。
別にそうなればそうなったで、日本の政治はそれなりに機能するだろうが、胸ときめかせる未来への期待が、再び消滅して、今度は政界再編のような事態に夢を託する他はなくなりどうだ。それさえも小沢氏主導で行われてしまう、ということになったら、パンドラの箱の中に希望の妖精さえいなかった、ということになる。まさか神様はそんな無情なことはなさるまい。
2010年 08月 30日