2016年4月8日
akira's view 入山映ブログ 死刑
人間の生命という重い主題について、軽々に予測とか推量に基づいた発言をすべきではない。それを十分に承知の上で言えば、裁判員裁判で初のケースとなった死刑適用について、やはり裁判員は否定的な結論を選んだ。新聞報道で知る限りでは、その結論を選んだ理由は、議論の余地なく極刑を選ばざるを得ない、というのではなく、わづかでも「選ばなくても良い理由」があればそれに拠ろうとした、と考えてよいのではないか。これは決して今回の裁判員の選択した結論の妥当性について疑念を呈している訳ではない。というのも、自分の判断で人間一人の生命を奪う、ということになれば、一点の疑念の余地なくその結論を選ばざるを得ない、というのでない限り、そういう判断はしない、というのはむしろ当然の帰結だと思うからだ。
判断の根拠として、永山基準は裁判官の基準であって、裁判員はそれと違った基準に拠って判断することあり得べし、とか、反省改悛の情が少しでも見受けられれば更正の可能性ありと見る、とか、いくつか法理論としては疑問のある論拠が新聞報道にはみえたが、それはあくまでも伝聞だから詮索はしない。勝手に横恋慕した挙句、本人の母親まで手にかけてそれでも死刑にならない、というのなら、複数の人間を殺しても、強盗目的だったり、強姦目的でない限り死刑適用はない、ということになりそうだ。しかし、それも推測の域を出ないことだからしばらく措こう。
かつて刑法による処罰には、二つの目的あるいは理由付けがある、という考え方が主流だった。一つは応報刑、つまり道徳的倫理的に許されざることをした人間には当然それに対して答責の義務がある。平たく言えば「目には目を」の延長線上の議論である。いまひとつは教育刑、すなわち反社会的行為に走った人間を矯正して再度社会に復帰させるのが刑罰の目的であるべきだ、という意見だ。後者の立場からは死刑は認められないのは当然である。日本の刑法は死刑を認めている。ということは、応報刑と教育刑の微妙なバランスの上に刑罰制度が成立している、と考えるべきだろう。その見地からは、わづかでも更正の見込みがあれば、いささかでも後悔の念があれば死刑を適用しない、という議論は必ずしも正当なものではない。
ただ、こうした量刑論、あるいは法の適用を巡っての理論的妥当性を問うのが裁判員制度の本旨ではない筈だ。だから、死刑か無期か、あるいは懲役三年か二年六ヶ月か、という判断を裁判員に期待するのは適当だとは思われない。あくまでも有罪か無罪かの判断だけを裁判員には期待して、量刑という技術論については職業裁判官に一任する、というのが妥当な判断だと思われるのだが。
2010年 11月 02日