2016年4月14日
風呂敷(1) 田中梅吉
敗戦後に日本にはやりだしたものには、アメリカでの流行のセコハンものが多い。ところが、アメリカさまにも、近ごろはあまり見うけられないのに、すさまじいまでに、日本人に板についてしまって、今では流行以上の生活風景となったものが一つある。あのカバンの必携というやつだ。
いまではカバンを持たない人をみると、何か一つ間(ま)がぬけたような印象をすらうける。だから年寄りまでが、いつの間(ま)にか、ステッキをにぎりなれていた手さきに、影の形にそうように、そいつをぶらさげる。まるでそうするのが、一つのたしなみででもあるかのようだ。ましてサラリーマンともなれば、これなくしては格好がつくまい。まさにカバンと彼とは、一蓮托生といったところか。学生とカバン……。まさか語呂あわせの酔興でもあるまいが、まさに弁慶になぎなた(・・・・)といったところか。カバンの中味をあえて問うまいが、カバンの七光りで、風姿なかなかさっそう(・・・・)たるものがあり、折りわるくも、彼とゆきずりの先生のかかえた風雪幾十年かの、色あせ型くずれたしろもの(・・・・)とは、痛ましさをこえて、ほほえましいばかりのコントラストだ。ことに若い女性たちのハンドバックのまぶしいばかりのすばらしさ……かくまでして、時流との二人三脚にあえぐ心がまえには、まことに恐れいるが、人ごみの電車の中などで、周りの人が顔をあかくさせられるような話を、憶面もなくまきちらす彼女らを持主とするバックこそ、さぞ光栄なことであろう。