2016年4月18日
風呂敷(3) 田中梅吉
まずそんなわけで、古本屋なんかも憎くさも憎くしなつかしき存在といったことになり、そうやすやすとその前を素通りできるものではない。で、講義の帰りがけには、とかく若干冊のものをそこから抱えてでないと、何か虫が収まりそうもないのも珍しいことではないのだ。われながら困った了簡だが、今更出直すほどの春秋のある身でもあるまいから、それはさておくとして、重い幾冊かの手荷物をふやしてしまったこんな折に、もしカバンを携えていたとすると、はたと当惑させるのが、このしろものの偏狭で融通性のない構造のことだ。ある収容量、それもほんの僅かばかりの収容量の限度に達すると、たとえ一小冊子たりとも、もはやオフ・リミットとして、断然拒否されてしまう。何という温情味に欠けた合理主義の所産かと、こんな折にはある呪わしさをさえ感じさせられる。
まずそんなわけから、ふと思いつかれたのが風呂敷のことなのだが、さてこれを改めて活用してみると、今更にその―底ふかく秘められた―ゆかしい功徳を発見して、むしろ恥じいる思いを禁じえない。