2016年4月19日
風呂敷(4) 田中梅吉
一体この風呂敷なるものは、いつ、どこで、だれの発明にかかるものか、実に東洋的な非合理的な自在精神なしには、とても生みだされてきそうもない利器とおもわれる。何という変通自在な人間味にあふれた、そしてまた謙虚な恩物なのだ。それは「いつでも、何でもいらっしゃい」と、まったく大手をひろげた心構えで、われわれを待っている。大きいもの、小さいもの、美しいもの、そまつなものに対して、いつも一視同仁の温情で抱きかかえてくれる。伸縮は自在で、かって窮することがない。中味がからで、用がないのに、なお無用の肩をいからせるようなカバンのまねはしない。用終れば、端然と身を収めて、ポケットの暗い片すみにすら、つつましく収まっている。もし汚れれば、いつでもいさぎよく身をそそぐ。中国には聖人というものがいたというが、その徳はこの風呂敷のようなものであったろうか。今の世の中には世界平和主義者などというものが、だんだんはびこりはじめてきたが、こうした手あいには、何かというと、とかく肩をいからして、けんけんごうごうしたがる傾きがある。カバンの親類筋でもあろうか。
(1957.5.16)(中央大教授、ドイツ文学)