2016年4月21日
緑色の大砲(2)―船の話 Ⅳ― 丸山 薫
だが、こんな半端な印象以外に、恒春丸の船内や航悔についてのそれは、いま思い返してみて皆無と言ってもいいほどだ。ただわずかに、細くて仄に暗い通路に沿った小さなケビンの中に母といっしょに居た自分や、いつのまにか船は動いていて、壁ぎわのクッションの上に伸び上って円窓を覗くと、外はもう塗りつぶしたような夜の闇で、ザーッザーッという潮騒のひびきがはるか下の方から聴えていたこと、やがて何か匂いの濃いカレーライスのような料理を、その船室に居ながらにして食べていた僕などを、まるで映画のフイルムの一コマを気紛れに切り取って見入るように思い出すだけだ。可怪しな話だがその後もしばらくは――未だ洋食というものが現在ほどに普及しない僕の少年時代を通じて――カレーの匂いと船の印象とが密接な結び付きをしてしまって、カレーライスといえばすぐに船を連想し、船と聞けばすぐにカレーライスの皿を想い浮べるようになってしまった。尤もその当時の船の一等食堂あたりで出るカレーライスは、今日一般通念になっているそれとは違う、味も純度も一流のものだったであろう。日本人の洋化趣味は、陸海軍の装備服装とか船の中の生活様式とか、先ずそんなところから民間に流れ入ったのではないだろうか? 少なくともそれらが与って力を致していることは確かに思える。