2016年4月28日
akira's view 入山映ブログ 小沢一郎
「少数の人を長期間だますことはできる。多数の人を短期間だますこともできる。しかし、多数の人を長期間だますことはできない。」と言ったのが誰だったかは忘れたが、小沢さんとそのお取り巻きは、そんなことはご存じないのか、それとも本気でかたくなな態度を貫いていらっしゃるのだろうか。これまでに何度もこのブログで触れた(10.05「強制起訴」)論点だから詳しくは述べないが、
1 司法の責任と政治の責任とはまるで違う。司法の場で責任の有無が争われていることは、政治の場でそれを問わない、問うべきではないという議論には結びつかない。
2 政治家たるもの、いたづらに世論に迎合する必要はないが、個人としての倫理が問われている、あるいは疑われているのなら、それに対して政治の場で申し開きをするべきなのは当然である。
3 個人の倫理問題を政争の具に供する、あるいは供することをほのめかすことによって争点のすり替えを図るのは感心した出処進退ではない。
4 政党内に異なった見解を持つ人が存在するのは結構なことだ。しかし、こと倫理の問題については話は別で、それを明確にしようとする動きを政党内の統一を乱す、さらには人民裁判だ、などと評価するのは誤りだ。
かつて日米安保の密約をスクープした記者が、その報道資料の入手について倫理的に問題があるとして葬り去られた記憶がある。あの記者は、入手の手法について人間として葬り去られたのは仕方がないと思うが、それとスクープの内容とは話が違う、というだけのことだ。小沢さんが確固たる政治的識見を異論の形でお持ちで、それを葬り去るべく倫理問題を持ち出したのだ、と仮定しても、その異論について議論・評価するのと個人に対する倫理的評価は別の話なのは同じことだ。一方の正当性は他方の不当さを許容しない。
この騒ぎは茶番を含めていくつかの副産物を産んでいる。一番残念なのは国民的アイドルであった人が「言われれば米つきに行く柔かな」にまでおとしめられてしまったことだろう。そうさせた人の罪は深い、なんていうと彼女の主体性に対する侮辱になるかもしれないが。もう記憶している人も少ないかもしれないが、立候補さへすれば当時の全国区で最高点当選間違いなし、といわれながら、断固として立候補を拒んだプロ野球の歴史的大投手を思い出す。分を弁える、というのは死語かもしれないが、個人の心のありようとしてはいまだに価値あるもののようにおもわれるのだが。
2010年 12月 14日