2016年5月17日
akira's view 入山映ブログ 下北沢
お役所予算の単年度主義の弊害についてはこれまでに何度も触れた(2009.3.16「公益法人制度改革(3)」同9.8「渡り」他)。もちろん単年度主義そのものの存在が悪だ、というのではなく、その弊害を認識した上で制度運用をすべきだ、という話なのだが、それとは逆に、一旦長期計画として策定されると、周りの状況がどんなに変わろうとも、断固原案通りにことを運ぶ、という恐ろしいほどの硬直性もお役所にはある。お米が足りなくて、食料増産、農地造成が国家的課題だった頃に作られた干拓計画。それが愚直に実施された結果の悲喜劇は、最近の有明問題で明らかにされた。
どちらも問題の所在は同根なのだが、これをお役所仕事の宿命だと考えるのなら、それに対する是正、あるいは改善の方策が考えられねばならないだろう。行政のやり方に対する異議申し立て、というのはその有力な手段の一つだ。しかしこれまでのところ、発生してしまった被害に対する賠償、といった実例はあるものの、行われつつある計画の変更とか、差し止めのような話については、裁判所もかなり消極的乃至は否定的なようだし、行政の側にもそうした声に対して積極的に取り組もうという姿勢は(当然のこととはいえ)見られない。ということは、粛々として(!)既定計画を実行する行政の鉄の意思の前には、民の声は無力だ、ということになりそうだ。
もちろんあらゆる計画について賛否両論があるのは当然で、反対論があったからといって計画をいちいちストップしていたのでは、参議院の問責決議案と同じで、行政そのものがたちゆかない。だが同時に、一旦ついた予算は死んでも手放したくない、というエトスが存在するのもまた事実だ。行政の硬直性を見越した上で、三年とか五年以上の将来を拘束するような立法なり計画なりを認めない、というのも一つの考え方だ。しかし、都市計画のようなグランドデザインについてそれでよいのかについては疑念もある。定期的なレビューをする、というのが一つの解決策だが、誰がレビューをするのか、誰がレビューする人を選ぶのか、をめぐって、結局お役所のいうなりになる人しか選ばれないのなら(2009.11.26「御用学者」)、単なる見てくれだけ(cosmetic work)の話にもなりかねない。
筆者の住む東京世田谷の下北沢で、昭和21年の都市計画決定に基づいた幅26メートルの道路を商店街の真ん中に通す、という計画の是非を巡って行政訴訟が提起されている。例によって賛否両論はあるのだが、自動車万能時代、エコなどという声は存在しなかった時代の計画であることは疑いない。全国にこうした事例は数多いと思う。最低限その帰趨に関心を持つ、という住民が増えるのは、タイガーマスクが増えるのと同じ位民主主義の定着に意義がある。
2011年 01月 13日