2016年5月19日
よしなしごと(3) 斎藤玉男
幼ない頃の母親の懐のにほひ、昔の小学校の教室の梅雨期の籠ったにほひ、ドンド焼の余烟のにほひ(それは断然においと違う)――思い返し思い返して懐かしいものの随一である。
『何の木の、花とは知らず、にほひかな』
浅草海苔にあの特有の香ひがなく、京のスグキにあのほのかな香りが欠けたとしたら、当の品物については勿論のこと、敷衍して言うと、お互いの人生が尠なからず落莫を覚えずにはおられないであろう。思へば、どうも従来の生理学や精神医学はにほひに対する関心が薄きに過ぎたとする外はなさそうである。にほひはそのまま人間存在のにほひに通ずる。嗅覚を疎外し閑却した生理学や精神医学はそもそも何の学問ぞやと言いたくもなるではないか。
この小節の初に思い返し思い返しと書いたが、不思議ににほひに限っては視覚や聴覚の印象と違って、追憶の中で鮮やかさが褪せないばかりか、却って時と共に印象が濃くなりまさるのは恐らく筆者だけの体験ではないであろう。これは嗅覚が視覚や聴覚よりも深所奥所においてお互いの存在感覚に連なるケ条があるからではあるまいか。