2016年6月1日
akira's view 入山映ブログ 大相撲
大相撲が八百長騒ぎで揺れている。無気力相撲だなどとリフレーズして頬かぶりしていたのも、さすがに今度ばかりはいい逃れも聞くまい。(記者会見に現れた理事長が無気力相撲と八百長は「ある意味」同じことだと思っている、と述べたのには苦笑した。「ある意味」好きなのは菅首相を始めとする政治家だけかと思っていたからだ。「ある意味」と前につければ、後で失言だと攻められてもそういう意味ではありませんでした、と申し開きが出来るとでも思っているのだろうか。やたらに「ある意味」が連発されるのは聞き苦しい。)
後知恵ではないけれど、今になって「そんなことは昔から疑っていた」と言い募るのは余り誉められたことではない。かさにかかって天に代わりて不義を討つといわんばかりの論難も同様だ。しかし、最近でこそ少し減ってはいるが、千秋楽に七勝七敗の力士が決まって勝ち越すのを見ていれば、多少何かがある、と感じない方が不思議だろう。十両以上の関取から親方など全部あわせても百人足らず。そんな閉ざされた空間の中で生活していれば、情も移るだろうし。なれ合いだって起こらない筈がない。
それを青臭いスポーツ論や、国技神聖論で切って棄てる分には気持ちはよいだろうが、ことの解決には遠かろう。のみならず、厳罰主義で今度逃げるに逃げられなくなった力士を永久追放だ、不名誉放逐だ、みたいに過酷な処分で路頭に迷わせれば、冗談じゃない、俺だけじゃない、と騒ぎにもなろうし、そうなれば、かつての板井のときのように、証拠がありません、と言い逃れるテは今度は通用するまい。バレないように手厚く経済的手当をした上で言い含めるしかないのかもしれないのだ。そもそもタテマエとホンネというのは、歴史伝統が旧ければ旧いほど乖離する場合の数と程度は増加するものだ。早い話が宗教的な権威が女色を始めとする世俗の汚濁にまみれた歴史は、中世以来枚挙にいとまがない。だからといって宗教が滅びるということにはならないし、なってよいものでもない。大相撲だって例外である筈がないではないか。
大道芸人に「絶対水に溺れない法」というのがあった。黒々と墨で胸に線をひき、それより深いところに入るな、というあれである。関取にも、絶対に超えてはいけない黒い線がある。それさえ教えられないようでは危機管理も自浄作用もあったものではない。大相撲は伝統ある国技だ。日本出身ではない力士の数がいくら増加しようが、神事の伝統をひく由緒ある競技であることに変わりはない。これを滅びさせることだけは避けるべきだろう。以心伝心の阿吽の呼吸が伝わりにくくなっているのなら、これは良い機会だ。はっきりと胸に墨汁で線を引けば良い。
2011年 02月 04日