2016年6月2日
こわい新聞(4) 城山三郎
この事情は、外国の新聞を読むときも同様である。言葉がちがうというハンデイキャップは別にしても、外国紙(外字紙ではない)からストレスを生じることは少ない。OASのテロ行為と、それに対するデモ隊の抗議とがさかんに行なわれているとき、ぼくはパリに居た。だが、新聞を開いてぎょっとするような思いをさせられた朝は一度もなかった。非常に違う世界のできごとという感じなのだ。自分にはどうしようもないできごとだという責任解除の感じが働らいているせいでもあろう。だが、その同じ記事も日本の新聞に出れば、ぼくの精神を動揺させるにちがいない。その原因が文字の感じにあるのか。表現形式にあるのか。ぼくは新聞こわさのため、検討する気力もない。