2016年6月7日
akira's view 入山映ブログ コップの中の嵐
そもそも名古屋の河村さんに対抗馬をたてた岡田執行部の判断が間違っていた。彼の政治手法に対して疑念を呈するのは良いし、それがゆきつくところ勝ち目のない候補を擁立して戦うことにならざるを得なかったのなら、それはそれで、それこそどなたかのおっしゃる「方便」であったのかもしれない。しかし(よもや勝つとはお考えになっていなかったとは思うのだが)負けてノーサイドになったときに、どの顔下げて河村陣営と共闘するかは当然考えがあってしかるべきだった。
国会議員の定数削減、公務員陣県費削減のお約束の方は、こども手当、高速道路無料化と違って、とんと実現の目当てがついていない。そんな中で蛮勇を奮おうという河村さんの一派であるのなら、揉み手、擦り寄りの相手としては公明党以上に意味も価値もあったのではないか。大局観の欠如というボタンの掛け違いは、従って河村氏の当選挨拶に小沢参りというグロテスクな構図を生む。さらには、今回造反した比例区の一年生議員たちは次の選挙のことしか念頭にない。してみればごく簡単に河村減税党に集団家出する可能性だってなくはないだろう、という話になる。
失礼だが小沢氏はもう終わっている。その翼の下に庇護を求めているかに見える新人議員たちもそんなことは先刻承知だろう。いまさらあの鳩山さんと一蓮托生も辞さない、という忠義ものがいたら驚くが、それよりはややマシかもしれないが、小沢氏を大将と担ぐ一派はもう一大潮流として日本の政治に意味ある存在になりうる筈もないし、なってもらっては困る。だから、造反小沢組といわれている人々が、いまさら誰も本気で実現できると思っていないマニフェストの履行を大義名分に掲げているのは、見る人が見ればものの哀れを催す、という趣向だろう。
こんなものさえ取り込めないとすれば、菅政権とそのお取り巻きの政治感覚は所詮純粋培養の学生サークルの域を出まい。一年生よりは一頭地を抜けている政治家は、自己顕示をしたくなるのだろう、原口さんのように拙劣な方法をとるか、永妻さんのように忍の一字で沈潜するかは別にして、だ。それもこれも自民党一党独裁が壊れた後のあだ花ではある。かつての自民党にも、嚢中の錐のような若手政治家は沢山存在した。要はそれが自己顕示のための自己顕示に終わるか、それを超えた大義が念頭にあるか、ということだろう、遠からぬ将来に明らかになる。
2011年 02月 18日