2016年6月8日
偶感(4) 三好達治
「崖の梅」は、後の「ホトトギス」などにいふ写生道にそのままあてはまる作である。「起きてゐて」は諷意を詼諧にまぎらはした、何といふか、その「夜寒」に、ほとんど写意にも近い句法である。最初の「雁一つ」は、先にもいつたやうにまつたく想像裡の産物であつた。三句三態、出入の自在、ほとほと敬服に耐へざる境地である。
今の写生道を唱へる流儀は、あまりに写生技に即きすぎるやうな風である。また別の書簡に於て、蕪村は自作二句に就て、「右は当時流行の調にては無之候。流行のぬめり、いとはしく候。」と述べてゐる。二句は「さみだれや大河を前に家二軒」「涼しさや鐘を離るる鐘の声」後者は必ずしも写生的といふのでない。なにともいひ難き境を、さらりとをかしくいひ取つたばかりが手柄のやうな句柄である。彼の厭つたものは「流行のぬめり」一にその「ぬめり」であった。写生はそれからまぬがるる一法たるにすぎなかつたであらう。必ずしも一法に跼蹐しなかつたのは、彼に於てまた当然といふべき筋合であった。明治の新俳諧が彼に学んだのはまことに結構であつた、ただ彼になほ学び足りなかつた不足分が――それがなくはなかつた、なお今日の俳諧に尾を曳いてゐるのであらうか。