2016年6月13日
コトバ、とりわけ詩のコトバについての管見(3) 斎藤玉男
たッた今出て来た「分有」と言うことばコトバに限ったことではなく、くわしくは「分有被分有」とでも言う方が当るかも知れぬ。その適切な例は例えば南太平洋のパプア族なぞに見られる樹(ス)霊(ダマ)の意味のとり方がそれである。ここでは古樹や大木は霊あるものとされ、その霊は族の禍福を司り、とりわけ酋長の運命を司配し気候や漁獲を左右するとされて崇められる。それは霊でありながら樹であり、樹でありながら酋長の分身でもある。氏族の一人々々はスダマを分有するが、分有するそのことが自己の運命をスダマに任せ、これに分有されることになる。類似の意味のとり方はアメリカ印度人のトーテムの柱や、朝鮮の天上大将軍の柱にもよみ取れそうである。
それがコトバと意味との場合、コトバが意味を分有しつつ意味に分有されることになって来ると、あるコトバの本有の意味は屢他のコトバに被分有される意味と区別がつきにくいままに、相交渉し相連係するので、自身にいつとなく多義性をとり入れる結果となり、それが自身の中の異義性へのセンサクとなって別に新語を老え出す機縁となり、それから先は因果纒綿して果てしのないコトバの堕落と純化の試みとが開始されることになる。