2016年6月14日
コトバ、とりわけ詩のコトバについての管見(4) 斎藤玉男
この国の言霊(コトダマ)もこれ等と相近い源流をもつとしてもさまで誤らないようである。ここではコトバはそれぞれ荒(アラ)魂(タマ)和魂(ニギタマ)の担い手であり、一つのコトバはそれ自体一つの咒(マジナヒ)であると共に、コトバを投げ掛けられた相手は、これに分有される吉兇、禍福の因縁につながらされることになる。(一寸二十の手紙が思い出されないか。) ヤマトの国がコトダマの幸(サキホ)う国であるか、コトダマに累(ワズラ)いされて居るかは、その道の人たちの啓示に任かせよう。
それにしても、この国の語法に特有なカケコトバ及び古い時代のマクラコトバがそれぞれ相異なるままに、コトダマから縁を牽くとすることは大胆に過ぎる提言であるであろうか。
兎に角コトダマ信仰と言う表現は、現代では信仰としては通用価値が疑わしいにしても、コトダマはヤマトコトバの隅々まで伝承の色付けを止めて居る一つのニュアンスであることは争えない。それがカケコトバやマクラコトバと本語との間の意味の受渡し、融合、移り行の間に作用して、そこに濃やかな多義性と異義性のからみ合いや反嬢を分有被分有的なあり方で調節して居ることも認められてよい。