2016年6月16日
akira's view 入山映ブログ リビヤ
中近東の「民主化要求」の火の手はあちこちで上がり、その多くのケースでは独裁政権を退場させることに成功したり、デモによって表明された民意を若干なりとも反映した政治体制が成立したりしている。だが、カダフィ大佐の独裁下にあるリビヤでは、正規軍が依然として彼に忠誠を誓い、傭兵と伝えられる兵力を含めると、武力では旧体制側が圧倒的な優位にある。カダフィはその行使をためらわず、ヘリコプターを含む空軍力による爆撃、戦車を含む重火器による攻撃を民衆に加え、血みどろの制圧が成功しかねない勢いである、
国連を始め、西欧諸国は流石に徒視しているわけにもゆかない、とカダフィ側の空軍力使用を制限すべく、リビヤ上空の飛行禁止区域(no-fly zone)設定に向けての動きがにわかに活発になって来た。地上軍の派遣にはためらいがある諸国にしてみれば、ボスニアでも経験のあるこの手段が道義的責任感の表明と、抗議勢力支援の一石二鳥ではないかと思われるのだろう。
もとよりその実効性にはいくつかの疑問があるのだが、ワシントン・ポストやニューズウィークのコラムニスト、ジョージ・F・ウィルが3月8日付けのポスト紙に書いた16項目にわたるアメリカ人としての疑念の表明は極めて分析的であると同時に網羅的で面白い。やや長くなってしまうのだが、かいつまんで紹介してみたい。
先ず彼は、カダフィなんかいない方が良いに決まっている。ただ、それがいつから重要な米国の国益に関わる問題になったのだろうかと問いかける。少なくとも一ヶ月前はそうではなかった、とも。
カダフィの力を殺ぐのに、空軍力の制限にどれほど効き目があるのか。空軍力さえ抑えれば効果があるのか、と問いかける。
セルビアにおける最悪のボスニア・イスラム教徒の虐殺はno-fly zoneの下で行われたのを覚えていますか。
no-fly zoneの設定は軍事的介入ではないというが、no-fly zoneの実行強制が軍事介入でないといえるか、また、それが可能だろうか。
13の空軍基地を叩けば、軍用飛行機を使用不能にすることは出来るだろう。しかし軍用ヘリはそうはゆかない。ヘリを使用不能にするためにはレーダーや対空火力の破壊が必要になり、これには米国戦力の犠牲が必至だ。その用意があるだろうか。
リビアはロシア製の地対空ミサイを所有しているといわれる。ということは米軍飛行士の犠牲は予想しておかねばならない。その用意があるか。
だからといって反カダフィ抵抗勢力に軍事援助を供給するにして、いったいどうやって供給するのか。
それより何より、反カダフィ抵抗勢力とは一体何者なのだ。(指導者の特定が難しい。筆者。)
リビアは極め付きの部族国家だ。米国にそのありようが理解できるか。(ウィルの見識を示す指摘である。筆者。)
かつてセルビアに対し、米国とNATOは兵士の損傷を避けるために1万5千フィートからの空爆を選んだ。これは言ってみれば、死にたくはないが殺すのはあり、という作戦だ。道徳的に見ていささか疑わしくはないか。
反カダフィ勢力を空軍攻撃から守るべきだ、というのなら、なぜ陸上攻撃からも守らないのか。
この介入は定義的に内戦に対する介入ということになる。将来的に拡大のおそれはないか。
国連の許可を得る必要はないのか。仮にあるとすれば、米国外交政策を非・好意的な組織の手に委ねる事にならないか(このポイントは実に米国的で面白い。筆者。)
これがクリントン国務長官の言うように破綻国家(failed state)に対する介入だとすれば、米国はソマリアの経験から何も学んでいないことになる。
今回米国がリビアに介入すれば、現在あるいは将来類似の状況にある国はそれを期待することにならないか。
3つの異なったイスラム国家に同時介入するのは得策と言えるだろうか。
2011年 03月 13日