2016年6月28日
akira's view 入山映ブログ こんな時の政治
この20日足らずの間、われわれの耳目に触れるのは大震災であり、原発であった。前者はともかく後者について(後者も前者の一部なのだからこの言い方は少しおかしいが)、いいたいことは数限りなくある。特に事後の余波ともいうべき電力不足、それに起因する停電騒ぎをめぐって明らかになった東電という会社のどうしようもない体質については、百万言を費やしても足りないくらいだ。しかし、傍目八目や後出しじゃんけんのような評論は生産性に乏しい。波風が収まるまでしばらく言及は控えたい。
それよりも、災害復旧の予算規模がどれほどのものになるのか。応急措置と恒久対策のそれぞれが、内容と規模が刻々変化する(moving target)状態では確とした数字がまとめられないのは無理もない。ただ、空前の規模になることは予想できる訳で、さらでだに財政逼迫の中にあって、この最優先課題の財源をどう措置するのかは喫緊の課題だろう。それも、金のなる木がどこかにある訳ではない。国民一人一人が負担する他はないのは自明だ。ならば、民主党はマニフェストの呪縛から抜け出して、こども手当、高速道路、農家補償といった、多少なりとも「無定見なばらまき」との批判のあった部分は真っ先に財源として拠出を考えるべきだろう。それだってもちろん十分というのには足りない。
それが、民主・共産・社民の三党はこども手当の支給に向けて、つなぎ法案に賛成するのだという。見識を疑う。被災者救援に向けて、手当の拠出を渋る子供を持つ家庭がどれほどあるだろうか。もちろん個別に義援に向けての踏み絵を踏ませるような施策は行ってはなるまい。だからこそ個別にではなく、パッケージで「得べかりし利益」を放棄する、というアプローチが必要になる。議員歳費を限られた期間だけ何割か返上する、などという末梢的な対策を考えるのが政治家ではない筈だ。国民新党の亀井氏がいう無利子免税の赤字国債が決め手になるかどうかは別にして、少なくとも彼の発言にはマクロな視野からなされた政治家らしい見識が垣間見える。
政治はといえば、救国内閣だ、災害復旧担当部局だ、などとウツワの議論やアイディアに淫している観さえあるのは誠に心もとない。ことは政治家だけではない。公共広告機構のコマーシャルをしつこく流したり、にわか仕立ての科学コメンテーターを登場させるか、感傷的な画面構成かの二者択一で我がことなれり、と考えているかに見えるマスメディアも、全く自らの持ちうる機能について認識を欠いているとしか思われない。
2011年 03月 29日