2016年7月7日
こんなはずではなかったが…(3) 津村秀夫
名取君は十一月二十三日に他界したが、退院して約一カ月。親しく奥さんの看護を受けられたが、むろん自分の死を覚悟していたらしいが、遺言めいたことは一言もいわなかった。家族に与えるショックを考えたのだろう。奥さんもわざと、それにふれなかった。
ただ、ある時、彼のベッドのそばに奥さんしかいない時、
「こんなはずではなかったね。」
と、つぶやいたそうだ。
奥さんの玖子さんはわざと横向きのまま、
「本当にね。」
と、低く小さい声で、押し出すように、やっと答えた。
おたがいの心の中は知りつくしている夫婦だから、それだけでもう充分だったと玖子さんは書いている。(遺稿写真集「人間・動物・文様」、六三年十一月慶友社発行の「あとがき」)
私は、この故人の言葉、「こんなはずではなかったね」にひどく心を動かされた。
人生のことはすべてこれであろう。
名取洋之助君のように自分の死を予知しなくても、生きていても人生五十年にもなれば、「こんなはずではなかったが」と思うことが多い。が、ガンという風な宣告に直面した時の、人間の狼狽ほど大きなものはあるまい。