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2016年7月21日

「変わった本たちとの出会い」(6)曾根崎心中 竹下英一

江戸幕府成立から百年目、五代将軍綱吉最晩年の1703年(元禄16年)5月22日の早朝、大坂の中心部、淀川に近い曾根崎村露(つゆ)天神の森で、若い男女が折り重なってこと切れているのが見つかりました。女性の身元は堂島新地の遊女お初21才、男性は内本町の大店平野屋手代徳兵衛25才と分かるに及び、この心中事件は俄然注目を集め始めました。それはお初が京都島原仕込みの美伎で当代有数の売れっ子、徳兵衛は平野屋主人の甥で手代修業の後ゆくゆくは跡継ぎか店持ちに納まるものと評判の美男、互いに一目惚れの知る人ぞ知る仲で、心中を図るいわれがなさそうだったからです。しかし、これが真相といううわさが伝わり広まるにつれて二人に対する市井の同情が高まり、一二週間のうちに事件をとりあげた芝居巷談のたぐいが上方で演じられ始めました。

 同じくこの事件に引き付けられたのが、道頓堀竹本座の座付人形浄瑠璃作家の近松門左衛門です。彼は約20年前から座元竹本義太夫と組み、題材を伝説や歴史のエピソードに求めた人形芝居の脚本を作ってきて既に51才、円熟期に差し掛かっておりました。竹本義太夫は三味線を伴奏にした浄瑠璃節の名手であり、地の言葉と人物の台詞をドラマチックに歌い語る義太夫節を完成させつつありました。この演奏方法は中世からの平家琵琶の表現法と演奏技術を直接に受け継ぎ発展させたものでした。近松と義太夫はわずか一か月で全曲を完成させ、上演の結果は空前の大ヒット、やがて江戸歌舞伎にも写されて、今の世の中の庶民の親子、男女の愛を描く世話物芝居という新しいジャンルの誕生となりました。

 私はこの「曾根崎心中」を中学から高校の間に、東京新橋演舞場で人形浄瑠璃を一回、また歌舞伎座でも歌舞伎を一回、ほぼ原形に近い形で観る機会を得ました。この珍しい経験にはちょっとした事情があります。東京で小児科医院を開業した父の患家のひとつに偶々興行会社松竹の関係者一家があり、父母の慰みのためにと時々夜の芝居の切符を贈ってくれたのです。父母が観に行くことは少なく、主に同居の祖母と私とが出かけることになり、5,6年の間に私はすっかり古典演劇のファンになりました。日本に完全な健康保険制度が出来上がる前の日本の地域医療は実は、経済的に余裕のある家庭や篤志家による医師家庭に対する自発的な援助によって支えられていたのです。所謂「ノブレス・オブリジュ」です。特に専業の小児科医院は今でも完全自立は困難です。

 さて、この心中事件に対する近松の解釈はこうです。一人娘の徳兵衛に対するひそかな慕情を知った平野屋主人は、二人の結婚を早めれば徳兵衛の身も落ち着くと考え、徳兵衛の只一人の身内であった継母にこの話を持ち掛けました。母は息子徳兵衛とお初の関係を全く知らなかったので、願ってもない縁談に喜び、高額な結納金を受け取りました。平野屋は二人の恋の深さを見誤っていたのです。

 母から話を聞いて驚いた徳兵衛は、とにかくまず結納金を返さなくてはならないと考え、母を説得して金を預かりましたが、その直後友人にそれをだまし取られてしまいました。八方金策を試みましたがうまくいかず、ついに、死んで不義不孝を詫びる決心をするに至りました。新興の大坂では、道義に則した金の授受貸し借りに命を懸けて当たることが商人として生きていくための大前提でした。

 徳兵衛から死ぬ決心を聞いたお初は考えます。これまでは二人で過ごしている幸せに満足するだけだったが、恋人に死なれた後の遊女はみじめなもので、将来の生活の設計図を描けるような客が付いてくれないままに、女の盛りを過ぎやがて老い衰えていく、そのくらいならいっそ万に一つでも、徳兵衛と一緒に極楽の蓮の花の中に生まれ変わって永遠の幸せを得る可能性に賭けよう、と。徳兵衛もようやく納得し、昼間のうちはお初の部屋の縁の下に隠れ、夜更けになってお初と一緒に死に場所と定めた曾根崎村に向かって忍び出ます。

 「此の世のなごり、夜もなごり。死に行く身をたとうれば、あだしが原の道の露。一足づつに消えて行く、夢の夢こそあわれなれ。あれ、数うればあかつきの、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生(こんじょう)の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽(じゃくめついらく)と響くなり。・・・」 近松渾身の名文がこの最後の場「道行」の冒頭を飾っています。歌舞伎、浄瑠璃での「道行」は、主役の男女が目的地に向かって歩いていく姿をパントマイムで見せつつ、彼らの現在の気持ち、幸せだった回想や将来への期待をバックの歌と曲によって表現することを主眼とする一幕のことです。つまりこの劇のクライマックスは、人形や役者の演技ではなく、太夫と三味線の二人によって演じられているのです(元が人形浄瑠璃だから当たり前だと言われればそれまでですが)。

 露天神の森に着いた二人は今や身も心も一つとなり、追っ手を懼れたお初が早く早くとせっつくうち、ためらいながらも徳兵衛は、脇差でお初の喉を刺しお初は苦しみながらも弱っていきます。「我とても遅れふか、息は一度に引き取らんと、剃刀取って喉に突き立て、・・・誰が告(つぐ)るとは曾根崎の、森の下風音に聞こえ取り伝へ、貴賤群集の回向の種、未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり。」

 終始緊迫した場面の続くこの劇で、太夫は地の言葉と台詞の両方を、時にか細く或は大音声で、かすれた高音から野太い低音まで、老若男女、喜怒哀楽を表現しつくして歌い語っていきます。伴奏は、この頃義太夫節に合わせて改良された太棹という大型堅牢な三味線を琵琶用に似た大きな撥を叩き付けるように弾くことで、太夫に対抗するかのような強烈多彩な楽曲を演奏します。「道行」の最後は二人の演奏が最高潮を盛り上げ、やがて静かに消えていきます。客席はしばらく静寂が支配しその中あちこちからかすかな咽び声が聞こえ、やがて拍手の音が万雷のごとく盛り上がってきました。私も涙を溢しかけながら辺りを見渡すと、気が付けば周りは多くが少し年上の美しく装った女性で、念入りな化粧も忘れたように涙のあとを曝して拍手をしていました。かなりの数の人は芸事や接客が業と見受けられ、身につまされる思い出もお持ちだったのでしょう。

 最後の「恋の手本となりにけり」という近松の文は相当強烈な宣言で、実際しばらくの間、心中ものの上演が弾圧を受ける原因となったそうです。女性の家庭での役割が強調された時代背景を考えると、恋は、客と遊女という特殊、一時的な関係の中でしか成立しにくく、どちらか一方又は双方が困難から脱出できなくなった時に破たんと死が訪れることになります。心中という死のありかたは極めて日本的と思えますが、その動機に着目して「愛の死」の一つの形と見直すと、世界各国の舞台芸術と比較できるようになると思います。

 近松の約百年前にシェークスピアの演劇作品が登場しました。「愛の死」を直接的にテーマとしているものとしては「ロメオとジュリエット」があげられますが、この時代の演劇は音楽との総合化がまだほとんど始まっていませんでした。ヨーロッパにおける総合化は主として音楽の側からなされましたので、演劇としての内容が伴ってくるには随分時間がかかることになったようです。私の意見では、受難曲のような宗教音楽を除いて、近松ら日本のレベルに到達したのは、ようやく19世紀のイタリアの近代オペラとドイツの楽劇で、特に「愛の死」に正面から取り組んだ傑作は、幕末の日本に題材を採ったプッチーニのオペラ「蝶々夫人」、5世紀頃のイギリス伝説に基づくワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」であろうと考えています。

 近松門左衛門の「曾根崎心中」は、義太夫節の歌、語りと太棹三味線の曲、更には洗練の極に達している人形の芝居と相携えて、今でも心を揺すぶられる、世界で屈指の演劇作品、すなわち「本」であると言ってよいでしょう。
(8月は休ませていただき、9月につづきます)

平成28年7月 竹下英一



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