2016年8月5日
akira's view 入山映ブログ ストレステスト
福島の人災さえ終熄していないというのに、早くも安全性は担保されたから原発は稼働すべきだ、といいつのる一派がいれば、そのお先棒を担いだお粗末な大臣が現地に乗り込む(6.28「政局往来」)。それを首相が知らなかったというのも呆れるが、かてて加えてこの度は、ストレステストとやらを終わるまでは稼働再開まかりならぬ、ということらしい。二階に上がって梯子を外された面持ちの人々も数多い。別に梯子を外されてむくれようがむくれるまいが、そんなことはどうでもよいが、安全性というイシューが、これほどぞんざいに扱われるのはいかがなものか。
都合の悪いことには頬かぶりで情報隠蔽までやってのける、というのと、何でも良いから屋上屋を重ねておけば当面情勢は糊塗出来る、というのとどれほどの違いがあろうか。大概のことはともかく、ここは譲れない、譲ってはいけないという一線の様なものが、ご都合主義の前にどんどんなし崩しになってゆく。その意味では選ぶところあるまい。牽強付会で言っている訳ではないのだが、元エネルギー庁次長とかのインサイダー取引の疑いにしても同じ穴の狢の感が強い。ご本人は周知の事実に基づいての株式の売買だからインサイダーではない、とおっしゃっているらしいが、とんでもない話なのは言うまでもないだろう。瓜田の沓の、梨下の冠のといっている訳ではない。譲れない一線は後で決めよう、というのでは、ダーツを先に壁に刺して、的をそのまわりになぞっているのと同じことだと言っているのだ。
恥の文化がわが国の特徴である、とされた時期もあるというのがまるで嘘のようではないか。サラリーマン重役が何億円もの報酬を受けて恬として恥じないのもそれならば、電車の中でお化粧直しに余念がないのも、モンスターペアレンツも決して独立した事象ではない。このあたりで本気になって「躾け」を復活させないと手遅れになってしまうのではないか、と思わせる事件が多い。ここでいう「躾け」とは、起立して君が代を歌わせれば良い、という呈のものではない。むしろ野暮を承知で見て見ぬ振りは止めよう、というのに近いように思う。横町のご隠居再登場だ。から呉れないに水を潜ったって良いではないか。
2011年 07月 08日