2016年8月9日
akira's view 入山映ブログ 魁皇引退
一昔前までは、そこそこに勝ち越して大関の地位を守る相撲取りのことをクンロク(九勝六敗)大関などといって揶揄したものだ。それがいまやクンロクどころか勝ち越せば良い。果ては角番をしのぐのが力量みたいに成り果てた。お人柄もあったのだろう、日本人大関がいなくなるというせいもあったのか、勝ち星の数が大記録だ大記録だ、マスコミまでがはやし立てる。魁皇がやっと引退してほっとしたのは筆者だけではないだろう。千代の富士が引退してしばらくして外国人記者クラブの昼食会で、「勝ち越せば良いというのならいまでもやってますよ」と闊達に笑い飛ばしていたのを懐かしく思い出す。
そもそも、大関というのは日下開山、横綱になろうという登竜門である筈が、さっぱりその気配も見えなくなってから何年になるのだろう。風格さえ漂うようになってきた一人横綱の健闘を見るに付け、あのヒール役でも今いてくれたら、と思う人も一人や二人ではないだろう。八百長だ、無気力相撲だ、という前にもう少し骨っぽい関取が出てこなければ相撲そのものの質が変わってしまうように思うのだが、こればかりは思うに委せない。せっせと海外で金の卵を掘り当てるのを期待する他はあるまい。幕内力士、三役力士が全部日本人ではなくなったりしたら、伝統神事としての相撲がどんなことになるのか、見物ではある。
名のみ残って内容が様変わり、というのはしかし相撲に限ることではなさそうだ。さしずめ大学などというのはその典型の一つ。二次方程式が解けない理科系の学生がいたり、卒業そっちのけでサムライの資格を取るのに一生懸命なのが当たり前になったり、はては博士号を持たない教授が博士論文の指導をするという冗談の様な世界が当たり前になってきた。それも、旧帝大の学長で博士号など持っていないのが珍しくない、というありようとは様変わり。そんな学士号や博士号に何の価値があるのだろうと思うのだが、「公益」財団法人というナマエがほしい組織と同じで、なにやら有り難みのある護符のような効果があるもののようだ。別に錯覚してありがたがるのはかまわないが、有り難みがないからといって逆恨みをして、大学卒の就職率が低いのが世の大問題だ、みたいな論調がはびこるから世の中おかしくなる。
どちらの議論が世の中に通りが良いか、というのが万事に亘る尺度になると、津波の防波堤の高さも、抗がん剤の認可も多数決で決めようと言う話と紙一重になる。いや紙一重どころではない。宰相の器や政治のあり方はもう既にそんな症状を示していないではない。
2011年 07月 20日