2016年8月9日
現代文明と精神座談会(14) 出席者:尾崎一雄/荻野彰久/斎藤玉男/島崎敏樹/丸山薫
島崎 ぼくは、じつは、この数年間、その現代文明論ばかりやっているのですが、弱っちゃいましたね。たとえば、いまの、山の話出ましたけれどもね。もとの山好きの連中というのは、下界で生活していますと、勤めは非常に重苦しいものです、上長がいますし、同僚がいます。きづなでがんじがらめです。家庭にはおやじ、おふくろ、兄弟、どこに行っても重みがあってやりきれない。つまりそういうものから全部自分をふり放して、まったく一人きりの自由の天空を翔けめぐろうというわけで、地球の引力から自分を離してしまおうというわけで山に入った。ところがいまの連中は、毎日、毎日の勤めがそうですけれども、平生の生活が重みがない、実感がない、空虚でしょう。どこかで自分の生きている重みを回復したい、実感を回復したいという意味で山に行くんだ。これは、いつか朝日の学芸ですか、森本哲郎さんが遊びに来て、二人でもみにもんでそこまでいったんですが、山に入れば今日の仕事を、いやだから隣のデスクの人にかわってもらうというわけにはいかない。山に入れば雨が降れば防水、吹雪になれば防雪の用意をしなければならない。生存の用意をしなければならない。それだけ生存の重みを感ずるわけです。その重みを感ずるためにほんものの方は、山とか、極地、僻地、アンデス、アフリカ、ヒマラヤというところに行く。だからもとと逆になっている。それが現代だという結論になりまして、それは森本さんの書いた本に載っています。「現代の神神」というんですけれども。
荻野 現代の定義ですね。それは。