2016年8月10日
現代文明と精神座談会(15) 出席者:尾崎一雄/荻野彰久/斎藤玉男/島崎敏樹/丸山薫
島崎 ぼくは、昨日もあるデザイナーと話していたんですけれども、いまの芸術作品というのは、すべてもとと反語化したものですね。たとえばぼくの知り合いのところに、タペストリーのリルサという強烈な画面がありますけれども、原色で、毛虫とか、むくむくした竜とか、太陽にしても、蛇みたいに光がうねっている、そういう見ただけでギョッとするようなのがあるんです。ぼくはリルサだ、と知っているからいいけれども、知らない人が見るとどこがいいのかわからない、いやだという気がしちゃう。ナイーヴなものではない。つまりもとの美術品というと、自分がそれに入ってゆけるようになっているが、いまのはそれを見ると、見た途端にやりきれないという感じがある。それがいま最も価値を呼ぶものだということになっているが、そういう革命的なものがあるんじゃないでしょうか。
この間、草月会館で、一柳さんが、自分でピアノをアドリブで弾きまして、ピアノの下にもぐって下から叩いたり、いろんな芸当をやったりしたんですね。若い連中はすごいなと感心していましたけれども、ぼくはいたずらにもならない。やはりピアノは鍵盤を叩かなければね。
丸山 そういうことが、絵、音楽、文学にも現われているんじゃないんですか。